夏のモロヘイヤ

さすがに前日90分しか寝ていないこともあって、19時ころ家に帰るなり寝ていた。

起きるともう11時半をまわっており、ダイニングに残された塩焼きそばにナンプラーをかけて食べた。

空になった皿を流しに置くと、どうやらもう一品用意されていたらしい。
モロヘイヤだ。

なんだかそのモロヘイヤは、あの頃ーーー子供の頃のそれよりもくすんで見えた。
それが妙に物悲しくて、涙を堪えながら食べた。


真っ青な午後5時の空、ヤスの家から自転車で帰ってくる。山から吹き下ろす風が心地よく、八月だった。一面に生い茂る稲穂の匂いが、夏なんだなと感じさせた。

冷凍庫を開け、チューペットを取り出して半分にパキッと折って食べた。ただの砂糖水の塊は、夏の少年には特別美味しく感じられた。

そろそろ夕飯時である。台所に立つ母に呼ばれ、家の畑へと行く。

夏の盛りのように元気よく生えるモロヘイヤを茎から折って、スーパーの袋がいっぱいになるまで詰める。茎を折る度に、青い匂いが立ち上がる。夏だった。

台所に持ち帰ると、鍋いっぱいに沸かしたお湯の中に少しの塩といっしょに茹でた。
茹で上がり水を切ると、お皿いっぱいにに盛り、鰹節をかけて醤油と一緒に居間に運んだ。

モロヘイヤは、夏の味がする。群馬の山の中の夏。


ーーあの頃は、もっとすべてが原色で塗りたくられたように新鮮で刺激的だった。絵の具のチューブからそのままひねり出したような世界はありのままに、綺麗だった。

どうしてだろう、どうして世界はくすんでしまったのだろう。
あの頃のように、原色のキャンバスの上にもう一度戻りたい。

こないだ、実家で食べたとれたてのトマトとキュウリ、美味しかった。
ありのままで、そのままで、いや、そのままだからこそ、格別に美味しかった。

なにが世界をくすませたのか。
この目か、この心か、わからないけども、もう一度あの頃のように、すべてをありのままに受け入れて肯定できるだけの純真な心が欲しい。

もう一度、心のキャンバスに原色を塗りたくるようにして遊びたい。