心の闇。それは希望の闇。

生きることの意味。
……「そんなものは無い」と様々な思想家たちは言ってきた。

それはある側面においてはその通りだが、別の側面に於いてはそうではない。

確かに、受動的に与えられるような生きる意味は無い。
「意味」とはそもそも一般に、受動的に生来から存在するものではない。それは生きることに限った話ではなく、森羅万象に於いてそうである。

「意味」とは与えられるものではない。それは、与えるものだ。

常にひとは認識する全てのものになんらかの意味を与えて生きている。
しかし、その行為に気付いていないだけだ。

健康なひとは誰しも気付かぬうちに生きることになんらかの意味を与えて生きている。
だから生きえている。

病んだひとは生きる意味が見えないのではない。
今まで、知らず知らずのうちに生きることに意味を与えながら生きてきたこと見抜き、そしてそれが空辣であることを見抜いてしまったのだ。

それは不幸なことである。しかし同時にひとつの機会でもある。
意味は与えるものであることでしかない、人生の意味はそのひとの解釈を離れえないことを知れば、『自分で意味を与え直せばいい』だけにすぎない。

病んだひとの苦痛は、現在・過去といった時間というものにその源泉をもつ。
それらが耐え難い事実であり、変えられないことであるという認識が生きることを辛くする。

しかし、そうではないのだ。
現在・過去の「そうであった」という意味付けは、新たな意味付けに替えることができる。
「そうに私が欲した」と作り替えることが。


現在・過去のどんな苦痛もそれはひとつの刺激剤にすぎない。
生きる意味を探すための刺激剤に。

心を病み、苦痛を覚えるひとほど、新しい意味を与えるための刺激剤を得ている。

ひとは病めば病むほど、意味を与えたいという衝動を強く持つようになる。

病んだひとのみが、与えられる意味の探求から、与える意味の探求へと考えを替えることが可能である。

そしてそれは、どんな苦痛も、ある幸福のための下地であることの洞察へと至る。
その洞察のもとでは、ひとは現在・過去の苦痛を幸福のための生贄として肯定することが可能になる。

そうして、ひとは生きる意味を獲得する。
己の、自分だけの、固有の意味付けを行いうるようになる。

そうして定立した意味は、幸福なものであるという帰結にいたる。
ひとの生来からの「生きたい」という意志は強い。その強い意志はひとを生きさせようとする。

その意味で、病んだ心はひとつの最良の処方箋だ。
幸福へと至る、ひとつの処方箋。