ひとは醜く汚く、それ故に美しい

愛したいから愛しているのか、愛されたいから愛しているのか、本当のところは闇の中に在る。

実際、自分がそういう疑問を抱いている訳ではないけれど(彼女大好きだし)、そんなことを考えさせられることがあったので、それについて記すことにした。

本当に自分が優しいからひとに優しくするのか、優しいひとで在りたいから優しくするのか。
さらには、悪者になるのが嫌だから優しくしているだけなのか。

ひとの行動の本質は「不足」だと思う。

ひとはその不足を補おうと、足りない部分を埋めようと、そうして満たされようと、生きている。
不足は、不安である。特にそれがひととひとの関係である時、それはより一層不安である。

不足、そしてそれから生まれる不安。
ひとはそれらをすべて引き受けながら生きるほど強くはできていないようである。

そして、大きな不足は溝の在るところにある。不具ではない、溝である。自分のまわりを囲む堀のような溝である。

その溝は、ひととひとの間に横たわっている。
ひとは、溝の向こう側のひとにどう思われているのか、どう思われたいのか、そんなことをいちいち気にしていきている。
少し難しく言えば、あるひとのある行為は、向こう側のひとによって遡及的に定義される。
つまり、あるひとのある行為はそれを為した時点ではなんの意味づけもされてなく、向こう側のひとによってそれが受け取られたときになって初めて意味づけをなされる。

たとえば、あるひとにキスをしたときに、そのひとのキスという行為は、その相手がそれをどのように受け取ったかのみに依存している。
相手がそのひとのキスに嫌悪感を覚えれば、それは嫌悪の行為であるし、
相手がそのひとのキスに愛情を覚えれば、それは愛情の行為である。

そしてひとはそういう相手から意味を与えられた行為から満足感を得たりするわけである。

つまりは、溝は自分の力で埋めることはできない。自分の行為によって相手の反応を喚起し、相手による意味づけという力でのみ埋めることができる。

したがって、ひとは、ひととひととの間の溝を埋めるために相手を利用するのである。
そのような相手の利用をある純粋なひとは汚いと、醜いと、感じるのだろう。

自分と相手との間に生じる不足感を埋めようと、ひとは相手に働きかける。
相手に想われたいと願って、相手を思う。
相手に頼られたいと願って、相手の相談に乗る。
相手に優しくされたいと願って、相手に優しくする。

そうして、溝を、不足を、埋めようと行動する。

しかし先ほど、不足を埋めようとするのは不安からだと言ったが、本当にそれはそうだろうか。

ひとは、充足の先を見ているのではないだろうか。
美しく、真摯な眼差しで、不足の溝に湧き出んとする湧水を見ているのではないだろうか。

そうして、不足はやがて埋まる。
その先にあるひとの優しさは、想いは、もうこれまでの不足の論理からは外れることになる。

経験上私は、不足の論理の先には、真に利他的になれるひとが待っているのではないかと考える。
それこそはひとの「完全」な状態であり、贈り与えるものである。

ひとは第一に自分のために利他的である。そして第二に、ひとのために利他的でありうる。

忘れてはならないのは、不足の充足した状態に安住してはならないということ。
不足を満たすための優しさを超えた優しさの存在を認めること。

ひとを愛することは、最初は自分のために愛するのでも構わない。
なぜならそれは、相手のために愛することへの架け橋だからだ。

「完全」を目指す手段としての醜い汚さは、その目的によって遡及的に肯定されてしかるべきである。
そうして、そういう「乗り超えられるべきもの」としてのひとは、「乗り超えよう」という意志を抱いているのであり、そうした意味において美しい。