捨てられない帽子

先日、引越しをしました。
引越しは今まで家にあったもので要らなくなったものを捨てる絶好の機会です。
そんなわけで、要らないものをぽんぽんゴミ袋に突っ込んでたときのこと、一つの汚い帽子が出てきました。

茶色に青い文字の書かれたセンスの悪いキャップ。それを着けて外に出かけた記憶はありません。
けれども、その帽子は捨てられなかった。

なぜならそれは、一年の夏合宿の練習中に使っていた帽子だったから。

モノにしろ、状態にしろ、それを所有していると、それにまつわる思い出が蓄積されて、愛情が湧き、それはもう買ったときのソレとは違うものになるようです。

それはむしろモノと言うよりは、自分の過去の写像なのでしょう。

その写像は、今はもう無い過去という時間を写し取った、ひとつの証であり、そのときの自分自身の歪んだコピーなのだと思います。

多くの人はそのことを、それを失ったときに初めて気づきます。
なぜならそれを失うことは、同時に過去の自分を失うことに繋がるのですから。
そこにあった自分の過去、自分の感情、自分の想い、それらはすべてもう手の届かないところに行ってしまいます。
自分が過去にそこで生きいていた証を失ったひとは、もうそれらは過去のことなのだから取り返すことはできず、悲しみに暮れるほかありません。

モノならこのようにある程度簡単にその価値について考え直すことは可能ですが、それが「今ある状態」のときはその判断は難しくなるでしょう。

それを難しくする理由は大きく二つに分けられます。
まず第一に、時間の制限という問題があります。
つまり、モノならば仕舞っておく場所がある限りいくらでも置いておくことができますが、「今ある状態」は現在流れている時間のうち、一日なら24時間のうち、「今ある状態」を10時間持ってしまったら、その10時間は他のものを持っていることはできないのです。
言い換えれば、「今ある状態」を捨てることは同時に「別のある状態」を持つことになり、「今ある状態」への郷愁というものは湧きづらいのかもしれません。

第二に、状態を捨てるという行為が明確でないという問題があります。
モノを捨てるのはそれをゴミ箱に入れればそれでおしまいです。しかし、状態はどうやったら捨てられるのでしょうか?また、捨てたという判断はどうやったら可能なのでしょうか?
また、どうしたら「それを捨てたくない」という判断ができるのでしょうか?

ここでひとつ提案してみたいことがあります。
それは、「状態」を「モノ」に移相して考えてみることです。

たとえばそれは、「『今ある状態』を捨てようと思ったときに、それにまつわる全てのモノをあなたは捨てられますか?」という問いを立てることです。

それに「はい」と答えられない場合、あなたは「今ある状態」に愛情を感じているのであって、捨てたくないのでしょう。

そして、それを捨てることによって新たに手に入る「別のある状態」は「今ある状態」にまつわるモノたちほど、あなたに捨てられないモノを与えるでしょうか?

そうでないと考えるなら、あなたは「今ある状態」を愛していて、それを捨てたくないのです。

「今ある状態」の価値は測りづらいものです。
そしたらその価値を測る空間を変えて、「それにまつわるモノ」の価値で測ってみたらどうでしょうか?

「新たに手に入れる状態」と「今ある状態」のどちらがより多くあなたに「捨てられないモノ」を生み出すでしょうか。

「捨てられないモノ」の量は、すなわちあなたを投影する写像の量です。
あなたの生きてきた記憶であり、証であり、唯一の価値です。

それを大切に磨いて生きること、それが生きることの糧になるんじゃないでしょうか。