納得と受容

…と言う訳でして、現在祖母が末期の癌で危篤状態と言うことで、群馬は原町日赤に泊まって看病をしています。

自分の祖母――おばあちゃんは本当に優しい人で、昔話にでてくるいじわるじゃない方のおばあさんをそのまま引っ張り出してきた感じ。
さいころは両親が共働きだったので、おばあちゃんは少し離れたおばあちゃんの家から坂を下って自分の家にいてくれて、近所のおばあちゃん達と一緒に時代劇を見ながらお茶をしたものでした。
おばあちゃんは頭もよくて、運動もできて(短距離で県優勝したとかしないとか)、人の器も大きくて、素敵な人です。
大学に入って、いろんな人の身の上話を聞くに、自分は家族には本当に恵まれているなと感じるのは何割かはおばあちゃんの影響なのでしょう。帰省した際に、お茶でも、とおばあちゃんの家に行くってぇと優しい笑顔で迎えてくれて、暖かくもてなしてくれたものでした。
最近の記憶で言えば、年末には一緒に正月飾りの縄ないをしたり、正月用にけんちん汁を作ったりしました。おばあちゃんは料理も上手で、中学か高校のころしばらく自分の家におばあちゃんが住んでた(おばあちゃん家の建て替えのため)ころには、帰ってくるといっつも美味しい焼おにぎりを作ってくれて、いっつもお茶と一緒に出してくれました。
そんなおばあちゃんは焼き肉が好きで、2月くらいにも一緒に焼き肉食べに行ったくらいでした。
かなりの乱文だけれども、おばあちゃんが自分に与えてくれた優しさはとても大きく、いつ思い出が尽きる気もしないくらいです。

そんな大好きなおばあちゃんが今、目の前で病室のベッドにやつれた姿で眠っています。もう、あと数日もないかもしれないらしいです。

大学に入ってから、幸か不幸か死というものと向き合う機会が多く、自分なりの死生観は持っているつもりです。
簡潔に言えば、死は禁忌ではなく、生と死は密接にかかわり合い、死があるからこそ生は意味を持ち、死は絶対的に訪れるもので、その絶対さこそが生を形作っている、ってな感じです。
だから、自分は死それ自体は怖くとも遠ざけたいとも思いません。死があるからこそ、今の生が充実しうるのですから。
しかし、人――特に近しい人の死は悲しくつらいものです。それはなぜか?
自分は、それはその人の死やその人との関係に対して事前に十分な納得ができない、さらには今後二度と関係できない=納得する機会がないことが原因だと思います。