空と自分と苦

仏教に「空」って考え方がある。

「空」とは、あらゆる現象が縁起の中で生起し、無常のうちに変化するということ。
つまり、何ごとにも「それ自体」ということはない。

けれど、今の社会はなんにつけても「それ自体」、つまり、<私自身>が求められる。

「君の考えは?」
「あなたはどう思う?」

何に対しても、<私自身>を持って、価値を判断して、物事を勝手な二分法の中に押し込めて行かなければいけないようだ。

このところ、あまりに行きすぎた<私自身>に疲れてしまった。

この<私自身>は、なんでも自分の想定内に置きたがる。
世界を自分なりに解釈しようと躍起になる。
すべて自分の価値基準で世界を再編したがる。

そして、そんな<私自身>は個性という名の下に現代の社会で礼賛されてきた。
<私自身>の強い人間を、自分の考えを持った個性豊かな人間として理想像に仕立て上げてきた。

けれど、そんな<私自身>が作った物は、単に礼賛されるものではなかったと思う。

<私自身>の世界のとらえ方、ものの考え方…。
それらの想定した範囲を超えたもの、それらの範囲との差異があるもの、それらはストレスとなって<私自身>に降りかかる。

移りゆく世界に確固たるものを求め、世界を自分の想定内に押し込めようとしたおごりが、こうしてかえって苦しめることになっている。

確固たる自分を確立するために価値判断をしてきたことは、同時に自分の世界をどんどん矮小化させるものだった。

すべては諸行無常であり、「空」だ。
確固たる自分は存在せず、縁起の中に移ろいゆくものでしかない。

「空」である<私>に、確固たる<私自身>を想定することは、苦痛でしか、きっとない。

「<私自身>であらなきゃいけない」という強い強迫観念が、この社会には植え付けられていると思う。

個性とか、自分らしさとか、現代社会の価値観は、苦しいものだと思う。

…とまぁ、こんな感じ。