生きることは、主体と対象の理想的時間の闘争だ

ハイデッガーが言っているのはこういうことだ。私たちは何かによって退屈させられている時、その何かがもつ時間にうまく適合していないと言っているのである。
つまりある物とそれに接する人間がいるとして、両者の間の時間のギャップによってこの第一形式の退屈(引用者注―何かによって退屈させられること)が生じるのである。何かによって退屈させられるという現象の根源には、物と主体との間の時間のギャップが存在している。それによって〈引きとめ〉が生じ、〈空虚放置〉される。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(p.216)からの引用だ。この引用部分の直前で、物にはそれ特有の時間があり、例えば駅舎に特有の時間とは駅舎の理想的時間、すなわち、列車発車の直前であると述べている。
この箇所が、この本を通読した後、妙に頭に残っている。なぜだろうか。おそらく、私の中に、なんらかの物との時間のギャップによって生じる苦悩*1があるからではないか。
たとえば、病で長く床に臥せるとき、私は私の所属している社会に置いて行かれる感覚に苦悩する。社会のもつ理想的時間に病の身はうまく適合できない。このとき、社会の理想的時間は朝9時の出社と十数時間の労働が5日間連続でなされることだ。病の身はこの時間に着いていけない
一方で、病がその治療に数年の時間を要することが判明したとしよう。このとき、私は苦悩する。しかしそれは先ほどとは異なった不適合によってである。なぜならば、このとき病者は、病者の時間とでも言いうる時間を生きようとしているからだ。すなわち、治療を最大の目的に置き、時間の流れをできるだけ遅くするような時間だ。私がこのような時間を生きるとき、病者の時間と社会の時間の間のせめぎあいが生じる。このせめぎあいが、苦悩となる。社会の時間に着いていけないのではない。重篤な病は、主体が社会の時間に束縛され、奴隷状態となることから解き放つ
ただ、このせめぎあいに病者が勝利を収めることはなかなかに難しい。結局は社会の時間に変更を迫るのではなく、一度そこから退出し、現在とは異なる社会に新たに所属するようにするしかない場合がほとんどだろう。
私が苦悩しているのは、これまで私が所属していた社会と、最適な時間が異なり、私は社会の側の時間の非柔軟性故に闘いを挑むことすら叶わないという様相なのだ。

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

*1:ショーペンハウアーが私たちは退屈と苦悩の間を行ったり来たりしていると言ったように、退屈と苦悩は同じ数直線上の現象であり、退屈への説明は苦悩の説明に利用できるところが多いだろう。