「客観的に」認められたいとい欲望は、結局は自尊の相関だ。

「客観的」なんて純粋にはあり得ない。神の視点なんてない。あったとしても、その視点から見える私はちっぽけでどうでもよいものだろう。客観性のニヒリズムだ。

そうではない。客観的な見方の第一歩は、「もし相手だったらどう思うか?」という私の主観だったはずだ。そして二歩目以降もそれは変わらない。

つまり、「客観的」は、私の主観から出発している以上、私の性向と必要性の上にある。

すなわち、「相手だったら?」「みんなから見たら?」と考えずにはいられない性向と、その視点から見ても自分はマトモだと思いたいという必要性だ。

そうして、私は、私の延長線にある遠い視点からも、私のことを大切な存在と思いたい、そんなわがままな思いを抱いて、見えないなにかと闘い続けるのです。