趣味とは、生活に句読点を打つことだ

「趣味とは、生活に句読点を打つことだ」と以前読んだ(下掲書)。
句読点のまったくない文章も、句読点だらけの文章もともに読みづらい。文章にはリズムがある。句読点だけでない。一文の長さ、接続詞の有無、など。

僕はタバコは趣味だと言って憚らない。
カフェで珈琲を待つ間、保湿器で60~70%の湿度を保った葉を取り出し、フィルタを載せたペーパーで巻く。ペーパーの端は切手の裏側のように糊になっていて、そこを舐めて円柱状に留める。この動作を女性がすると色香があって好きだ。珈琲は中南米産の豆を中心にミディアムからシティにローストしたブレンドが好きだ。やはり一杯一杯ペーパーでハンドドリップされた珈琲が一番美味しい。いつものカフェのいつもの席でいつもの珈琲を待ちながらいつものバージニア葉を巻いた煙草を片手にバッグから本とノート、筆記具などを取り出す。熱い珈琲は味がよくわからないので少し温度が下がってから口に付ける。珈琲を味わうときは、舌の色々な部位を転がすようにして舌上の各味の感受部位とその組み合わせの刺激を楽しむ。
一口目がなにより重要だ。
その日のハンドドリップの癖、豆の状態、そして、自分の健康状態を知ることができる。これらが揃って初めて美味しいと感じる。思わず「美味しい」と声が漏れる。カウンター越しに店員さんの笑顔が返ってくる。そして、ジジのZIPPOを点火し、バージニア葉を巻いた手巻たばこに火を灯す。煙を吸い、吐き出す。続いて、深呼吸。灰皿に灰を落とす。珈琲を一口含み、飲み込む。やがて煙草の先端を灰皿の上で転がし、汚く潰れないように火を消す。そして、本を手に取る。昨日まで読んだページを開き、新しく読み始める箇所の右上に日付と場所を書き入れる。ブルーブラックのペンからオレンジの蛍光ペンに持ち替えて、本に向かう。

・・・以上が、僕が一日の勉強を始めるまでの手順だ。もはや儀式と言っていいかもしれない。この一連の儀式の中で、モードを切り替える。スイッチをオンにする。そして一日が始まる。

問題はスイッチをオフにするときだ。今日はうまくスイッチがオフにできない。だからこの文章を書いている。家に帰り、シャワーを浴び、ストレッチをして、セレッシャルのブレンドハーブティー「スリーピー・タイム」を淹れる。この前後で煙草を吸うときもある。一本の煙草を巻き、吸うことは、生活の句読点を打つことだからだ。

セレッシャル スリーピータイム 20p

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スイッチをオフにできないとそもそも寝ることができない。オフにする儀式が必要かもしれない。そうでないと、たとえ眠れたとしても夢のなかでも現実の様々な刻限に追われてしまう。

今日は気の置けない友人たちとひたすら喋った。昔の話、中身の無い話、取り留めもない話・・・。会話自体に意味はない。これらのコミュニケーションにはスイッチをオフにするという意味以外必要とされていない。

Sennheiser カナル型ヘッドフォン CX 400-II BLACK

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いま、ゼンハイザーのCX400で音楽を聞いている。10~15年以上聴いている音楽だ。音楽は意志の直接の表現として、僕の代わりに泣き、怒り、笑い、そして、焦慮を和らげてくれる。「焦慮は罪である」と以前読んだ本に書かれていた。その通りだと思った。

生活のリズムには文章の句読点のようなそれを美しくせしめる儀式が必要だ。それを忘れ生きるとき、焦慮の影が背を焼き始める。

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終 圧 ( おさ ) えつけていた。 焦躁 ( しょうそう ) と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに 宿酔 ( ふつかよい ) があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。」(梶井基次郎檸檬』)

檸檬 (新潮文庫)

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