"Do I Love You?" という奇妙な問いかけについて

恋人に、「私のこと、愛してる?」と尋ねたときよりも、「私は、あなたのこと、愛してる?」と尋ねたときのほうが得られる安心が大きいように感じる。
どちらの質問も、愛し合っている、二人の関係が強く拘束されているという現状の確認である。しかし、このふたつの質問には大きな違いがある。前者の質問では、「私のこと、愛してる?」に対し、「愛してるよ。」と返答があり、「うん。私も愛してる。」と返す流れが想定できる。ここで二者は、関係の確からしさの保証をそれぞれが自分自身で行っている。これに対し後者の質問では、「私は、あなたのこと、愛してる?」と尋ねることで、関係の確からしさの保証を相手に一存している。つまり、この私は、「私はあなたを愛している」という関係の記述を行うことを放棄し、相手にそれを行わせることで、関係の記述を行っても関係の確からしさの保証に直結しない部分の不安定さを相手に押し付けているのだ。したがって、このふたつの質問の違いを明らかにするためには、関係の記述を行っても関係の確からしさの保証に直結しない部分とはなにかを問うことが必要である。

 ここで、「愛してる」という記述はコンテクストについての記述、メタレベルの記述であることを確認しておこう。「愛してる」とコンテクストについて記述することによってそのコンテクストの意味が定まるのではなく、二人の相互行為が連鎖していくうちに、「愛してる」という記述が妥当するコンテクストが発生する。「愛してる」がコンテクストを生み出すのではない。「愛してる」は、コンテクストから生まれ落ちるのである。

 もう一度問題を整理しよう。「愛してる?」という質問が生まれる原因はどこにあるのか。これは、デートして、いちゃついて、抱き合って、キスをして、セックスをして・・・といった「愛してる」というコンテクストとして理解するに妥当な相互行為のシークェンスを行っておきながら、このシークェンスを「愛してる」というコンテクストとして理解することを躊躇させるものはなんなのか、ということだ。このように問題を定式化すれば、その答えを自我の弱さ、あるシークェンスを適切なコンテクストのもとに了解する能力の欠如に求められる(ベイトソン,2000)。この私は、自我が弱いため、二人の置かれているコンテクストを適切に了解できず、「愛してる」というコンテクストについての記述を自ら行う能力が欠如しており、現在置かれているコンテクストが「愛してる」というものだという確信に乏しいのだ。そのため、コンテクストについての記述を相手に委ねない限り、その確からしさが保証されない、ということになる。ここで、新たに疑問が浮かぶ。なぜ、コンテクストについての記述を相手に委ねれば確からしさが保証されていると感じられるのか、つまり、なぜ、自分よりも他者のほうが、自分についての記述の確からしさを持ちうるのか、というものだ。

 自分よりも他者のほうが、自分についての記述に確からしさを持っているということは、私たちが、自らの記述の根拠を私たち自身のうちにもっていないことを意味する。だとすると、私たちは、自分自身について、誰かから記述されることを求めているとは考えられないだろうか。「君は、これだ。」である。

精神の生態学

精神の生態学

(この日記は2011/4/4に高崎線下り車内で書かれ、終着駅に到着したところで途切れている。)