「死にたい」という言葉が生まれる場所―往き来する過去・現在・未来

諸々の出来事の記憶があまりに複雑で、紐解くことのできない塊のようになっている。コンプレクス(心的複雑性)だ。この塊は土葬されていて、いまも過去という心の地中にどっかりと居座っている。
過去・現在・未来の表象を植物に喩えてみた。植物のアナロジーはありふれているだけのもっともらしさがあるのだろう。
過去の表象は、いままでの人生が堆積した地中に伸びる草の根だ。この根は水分と栄養を茎、葉に運んでいる。未来がイメージでしかないように、過去もまた、イメージでしかない。消し去りたい過去がある。それは心的複雑性であり、地中に根が張るのを妨げている生々しい肉塊だ。この塊は過去を断絶させる。過去の一貫したイメージを描けなくするのだ。根が張れない草は、茎を伸ばし、葉を広げるに足る栄養が届かない。つまり、消し去りたい過去は現在について語ることを妨げる。
未来は、太陽光だ。未来のイメージが描けるならばそれは降り注ぎ、葉は太陽に向けて育つ。描けないならば、それは降り注がず、草を枯らす。未来について私は語れることが多くない。この程度の考えしか思い浮かばない。ケッペンの気候区分でいったら、Dfaあたりに生息しているのだろうか。雨は、憂鬱の象徴のようにしか思えない。
現在は、未来のイメージと過去のイメージの関数だ。現在は、既に規定されている。現在から前後に伸びた時間は、その返り値として現在という一点を規定する。
さて、「死にたい」という言葉は、未来への絶望なのだろうか。
それは、取り返しがつかないほど汚染された土壌に過去という根をはることができないことから発せられた言葉ではないだろうか。太陽の光を望むが、そこに向けて葉を広げるだけの栄養が根から供給されないという不全だ。
「これは「試練」だ。過去に打ち勝てという「試練」とオレは受けとった。人の成長は未熟な過去に打ち勝つことだとな」「恐怖とはまさしく過去からやって来る」(Diavolo[2001])