自分を無価値だと思うことは、自分の価値を守るための方便だ。

自分を無価値だと思うことは、自分の価値を守るための方便だ。
なぜ、自分を無価値だと思うようになるのか。理想と現実という対立から考えてみたい。理想とは、これまでに自我が応えられなかった要求の相続人である。フロイトはこれを「理想自我」と呼んだ*1。理想自我と自我の間にあるのは性愛的な関係だ*2。自我は、理想の自分を愛し、それを我がものにしたいと思う。
度重なる挫折、「ごめんなさい…体調が悪くて今日は伺えません」という連絡の蓄積が、応えられなかった要求を自我のうちに貯めこまれていく。しかし一方で、こんな連絡をせずに、健康に生活したいという希求がある。この希求は、これらの応えられなかった要求たちを理想自我に相続させる。そうして、健康ではつらつとした応答ができる理想をイメージの世界につくり上げる。これは反実仮想の力だ。「もしも〜でなかったら、〜だったのに」という悲しいことばは、一方で、そうじゃない自分を想像の世界に描く力を秘めている。こうして、悲しいことばに編みあげられた理想が姿を表すことになる。
理想の出自をこのように考えると、理想に向かって奮闘するという姿よりも、理想という白昼夢に逃げこむ姿のほうが自然ななりゆきに思える。しかし、白昼夢のなかで理想を実現させることは不可能だ。夢は覚め、ただ現実があり、応えられなかった要求にまみれた現実のさなかで、自分を無価値だと感じる。誰からの必要にも応えることができない無力感に襲われる。
しかしこれは嘘だ。自分の価値を守るための方便だ。
現実のなかで理想を手に入れることを放棄したあとに残された恋路は、白昼夢のなかで理想を愛するようになる。白昼夢のなかで理想を愛するとは、「もしも〜でなかったら、〜だったのに」と言う力だけは手放さないことを意味する。そして、この悲しいことばを発する力は自分には価値があるという信念に由来している。自分の未来に可能性を信じていなければ、反実仮想をする力は生まれてこないからだ。反実仮想のつくる可能世界で万能の自分から備給するためには現実という項を捨て去ることが手っ取り早い方策だ。可能世界は、理想と現実という対立から現実を捨象して、理想からの備給のみにしか充足のあてを見つけられないほどに悲しいことばを紡ぎ続けた先の最後の退避路だ。
そうして、自分の価値(理想への愛、と言ってもいいかもしれない)を守るために、「自分は無価値」だ、と、いい聞かせるのだ。

*1:「集団心理学と自我分析」藤野寛訳『フロイト全集17』,岩波書店,2006年

*2:超自我」にはこの性愛的な性質が失われているように感じる。