「s.t.」――佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』第一夜前半

本屋は嫌いではない。
よく行くところではあるけれど、好きなところ、というわけではない。

なにか欲しい本がある時はいい。
「著者は△△、タイトルは○○で、××の出版社から出てて・・・」
そこまで限定されてなくても、なんらかの情報探索の指向性があるときは、本屋が好きだ。自分の欲しい物が手に入る。
「なんで売ってないんだよ!ちくしょう」なんて毒づいたりもできる。

「欲しい本があって、その本を売っている。」その限りにおいてしか本屋は好きでない。
情報探索の指向性を持っているときにしか、本屋には入りたくない。

情報探索の指向性、なんて言うと堅苦しい気もするけど、こんな感じの行動のことだ。
なんとなく本屋に入ったときに向かっている棚、本を読んでいるときに他の字から浮き出て見えるようなキーワード、カフェで隣の人の話に耳が傾くとき・・・。

その、情報探索の指向性がないとき、私にとって本屋は恐怖の対象だ。

「本屋に並ぶ一冊一冊の本、その情報のどれだけを自分は知っているだろうか?」
そんな意識が働いてしまう。
圧倒的な情報の洪水に飲まれそうになる。得体の知れない焦慮に吐き気を催す。

「焦慮は罪である」
カフカの言葉だ、と今日買った本に書いてあった。
先輩ふたりに薦められて買った本で、佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』という本だ。

「罪である」といわれると、罪って何?と考え込んでしまうが、ここでは、美しくない、という感じの意味だろうか。
とりあえずいま流行の情報を集め回って情報という命令*1の<奴>になっているのに、その集め回った情報を振りかざして、なにか気の利いたこと言って、その情報の<主>になろうと躍起になっているさまを佐々木は「醜い」と考える。

美−醜という価値基準はいまだによくわからないのだけど、たぶん善−悪とかに比べて多分に個人的な基準だからなのだろうか。
でも、この佐々木の考えにかんしては確かに醜いなと感じる。
自分が主であるとひとに見せるために情報の奴隷になる、そんな<奴>であるのに<主>のフリをするような高慢な卑屈さをさらけ出していい気になってるとしたら、それは醜いな、と私も思う。


そんな病理的な焦慮の「〜しなくちゃ」に満ちた生き方は私には向いてないなと思う。
「〜しなくちゃ」に到達する前に、吐き気がして、無理、って体が拒否するから。
無意識ではそういう生き方にあこがれているということの証左なのかもしれない、けれど、私には「制限と美」という言葉(これはニーチェの言葉だと書かれていた)が、とても美しく響く。

この「制限と美」という言葉がとても美しく響いたとき、思い出したのは「s.t.」という記号だった。
ミクロ経済学で制約条件付き最大化問題を記述するときに、その制約条件式を示す記号だ。

max f(x)
s.t. g(x)

*1:ハイデガーも、『情報』とは『命令』という意味だと言っている。」(佐々木 2010, p.17)