「私は生きているだろうか」(2008/12/20の日記から)
(2008/12/20の日記から)
最近、また、時々苛々が止まらなくなった。
お陰で、部屋のドアに穴が開いた。オシャレに隠したけど。
「なぜ、苛々するのか。」
理由はない。苛々するから苛々する。
いつも、苛々してから、理由をさがしている。
そう考えると、理由とか、原因とか、結果とか、そういうのって人間の作ったもっとも哀しい言葉なんじゃないかと思えてくる。
なにごとにも意味を見つけないとやっていけない人間って生き物は哀しいな、と思う。
理由とか、原因とか、結果とか、そういう仮象を作り上げないと生きえないんだろうな、人間は。
言葉って、嫌いだ。
その時の感情を表す言葉が見つからないとき、人間は泣いたり、暴れたりするんだろうな。
その時ばかりは、人間は言葉を超えている。
そして、その時ばかりは、「生きている」。
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カントは、どこかの伯爵の言葉を引いてそれを強く肯定した、というのをニーチェの遺稿ノートを読んでて知った。
『不快は快に絶対的に先行する。』
それに続く遺稿ノートの数節を読んでいて、とても共感した。
それで、「生きている」っていうのは「投げられたボール」のようなものなんじゃないかと考えた。
ひとをボールに喩えると、生きているとは、投げられたボールだ。
誰かに掴み上げられ、思い切り壁に叩きつけられる。
そのこの上ない衝撃で跳ね返る瞬間、ひとは産まれてくる。
そして、跳ね返ったエネルギーが、ひとを生きさせている。
ころころと転がっていると、また誰かに掴み上げられ、壁に投げつけられる。
壁に当たる衝撃は、とても痛い。ボールの形も変わっていく。
その壁に当たり変形したボールの形が、個性なんだろうと思う。
跳ね返ったエネルギーが、またもやひとを生きさせる。
悲観的な話じゃない。
例えば、なにかの成功で社会に認められたことも同じ衝撃だ。
そして、それは、ボールが止まるまで、繰り返される。
そして、「自分を乗り越える」とは、
『自ら自分のボールを掴み上げ、壁に思い切り叩きつけること』
そうなんだと思う。
そうして、初めて、自らの力の反動でひとは、「生きさせる」ではなく、こう言えるのだと思う。
「生きている」と。