自由の重苦しさについて

自由って重苦しいだけじゃない?
選択肢が増えれば増えるほどどうしていいかわかんなくて、結局無難な道を選んでる。

選択肢が増えた、多様な未来を描く可能性に開かれた、制約の少ない社会になった…「君たちは無限の可能性に開かれている」

これは確かにその通りだ。では、なぜその自由を謳歌できないのだろう?

この問いに答えるために、「自由とは対象を支配下に置くことである」という側面に目を向けたい*1

自由は主体性という言葉とセットに語られてきた。
多様な選択肢の中から主体的に選び取る個人。主体的に生き方を決める個人。そんなものが理想とされてきた。

主体性とは、主人、主役という言葉にみられるように対象に対して「主」であることだ。
主体性は、対象との関係を支配ー被支配という図式に押し込める。
自然を支配し、自分自身の欲望を支配しようとして(失敗してきた)西洋の歴史は、主体であろうとした闘争の歴史だ。

そして、闘争に勝利し、主体の地位を手に入れたとき、自由が生まれる。
対象を支配することができることが自由だ。

こう考えると、自由、自由と言われている中で、自分が主体の地位に立って支配できている選択肢なんてこれっぽっちもない。「自由」は自由などではなく、逆に、「自由」に対して主体の地位に立てずに受動的な立場しか確保できていないことがこの「自由」の重苦しさなのではないだろうか。

*1:本エントリーでの自由は「積極的自由」を指す