φιλοσοφια

φιλοσοφια−フィロソフィアとは、「知を愛する」という意味で、「愛知」と訳される。
知を愛すること、私にとってそれのみが唯一、自分を自分として保つ手段であり、自分の目的である。私が、自分自身を愛することができるのは、この知においてのみである。

それ以外の私の愛はすべて他者へと向かい、他者を介してしかその満足を
得られない。とても揺らぎやすく不安定な愛しか持ち合わせていない。

この、φιλοσοφιαのみが、私が私として生きていける根源的なものであり、これなしには私は私として私を所有して生きていくことはできないだろう。

そのφιλοσοφιαの最も根源的な形式−それがphilosophy、すなわち哲学であり、私が揺らぐとき、私は哲学書を開き、思索を行い、自らの実存を確かめている。

だから、ベッドに張り付くような体を引きはがすように起きあがった今日のような日も、自らのφιλοσοφιαを満たすために、哲学書を開くのだ。

哲学書において語られるのは、常にその哲学者の不安や不満、危機感の克服の過程であり、結実した哲学者の書に触れることは、自らの不安や不満、危機感が克服されていくような錯覚をもたらしてくれる。最良の精神安定作用を持つ。

いま、ブレンターノから始まった20世紀哲学を読んでいる。そろそろフッサールの章が終わる頃。次は少々飛ばしてハイデガーに行こうと思う。諸事情で14日頃までにハーバーマスに到達しなければならないという事由もあるのだが、ともかく、疲労は伴えど、これほどの安心をもたらす学問は哲学をおいて他にないだろう。

20世紀の哲学−−ニーチェの不吉な予言、「神は死んだ」という今後二世紀の予言が的中し、二度の世界大戦に象徴されるように理性と言語の信仰が崩壊し瓦礫と化した危機の時代。そこから、立ち上がろうとし、歩み出そうとした哲学者のエートスは私を勇気づけてくれる。

おしなべて、哲学者が哲学する所以は苦悩にある。
哲学は、その苦悩を克服しようとする運動であり、その結実は、他には代え難い達成感と安堵をもたらす。

ここ数日、親しい人といるとその人にまとわりつく苦悩に無意識的に共苦してしまい、快よりも不快が優越した状態にあった自分。デカダンスにあった自分。「共苦はデカダンスを伝染的に倍化し、弱者の自己保存のための連帯をもたらすものであり、排斥されるべきである」と述べたニーチェはある程度妥当するものであると思うが、私は少なくとも「排斥されるべき」だとは思わない。ただ、共苦は「お互いを憧れの矢とみなす」、「友」の間でだけ行い、上昇の気流となる手段としてのみ認められるものであり、上昇の気流なき共苦はただのデカダンスの形式であり排斥されるべきであると考える。

つまりは、ちょっと疲れている。
「お互いを憧れの矢とみなす」「友」と、語りたい。

そういう「友」はなかなかいないけども、そうしなければ、「孤独」は私を深淵へと、深い深い深淵へと導いてしまうだろう。

以上、雑感。
少し、一人にさせてほしい。だけれども、「友」にだけは、いてほしい。