「日常を変えたい」という贅沢な不満

「日常を変えたい」なんて不満をこぼす。なんて贅沢な話だろうか。

頭痛がひどくて寝込んでいた。
夜になるにつれ、徐々に快復して、この時間が一番楽である。日内変動だ。
翌朝また、絶望的な気分にさせる頭痛と共に布団から出られないのではと考えると眠るのが嫌になる。

日常、という一定のリズムに乗って一日は奏でられる。
朝起きて、納豆とご飯を食べて、身支度をして、カフェで珈琲を飲んで、勉強を始める…。
そういうスタートが一番美しい日常のリズムだ。

このリズムが断たれると、一日が上手く過ぎていかない。
寝こんでまだ二日だが、ずいぶんと取り残されてしまって、取り返しがつかないような気すらしてしまう。

昨日、金曜ロードショーで『アイ・アム・レジェンド』をやっていた。
謎のウィルスの蔓延でNYにただひとり残された男。日常を保つために、毎日決まった時刻に決まった予定をこなす。その日常に少しでもヒビが入っただけで、彼の精神は大きく動揺する。

要するに、日常のリズムのうちにどれだけ想定外を受け入れるバッファーがあるか、という問題なのだろう。
もしくは、日常のリズムのうちに、「休養」という予定を入れたり、「想定外」という予定を組み込む。そうして、それらの予定が日常を成り立たせる上で欠かせない要素だと、納得させる。

日常が成り立たない以上、違う日常を思い描こうにも、不確実性の波にさらわれる。
まずは、この、どうしようもなく流れていく時間の中に日常というリズムを刻めるようになることが必要だ。