過去とのつながりを保つことに必死だった

お盆休みを利用して大阪からきた後輩が、東京観光に連れて行ってくださいと言う。
「関西のひとは東京のことを嫌いだと思っている」と思っている僕は、その原因の1つにひとがごみごみしすぎていることがあると思っている。
そこで、あまり人ごみでない東京っぽいところ、と、あんまり考えなかったが、自由が丘に連れていった。
2年ぶりに再開した後輩は、2年分綺麗になっていて、2年分疲れが溜まっているようだった(昨晩のビールのせいかも分からないが、ほんとうのところは分からない)。
のんびりした自由が丘の街はちょうどよかったのでは、と思っている。

後輩と新宿で別れた後、紀伊國屋書店で、東浩紀編『思想地図β』を買った。
学部の前半を商学・経済学に、後半を思想・哲学に没頭して過ごしていた僕は、大学院に入って、商学系のテーマに再度立ち返ることにしたものの、なにか物足りなさを感じ、どうも没頭できずにいる。
なにが物足りないかというと、人間臭さというか、人間の内奥というか、そこにまでフォーカスすることが現在の力量ではかなわず、どこか表層的で、心に迫ってくるものがない、といった感じだ。
心の栄養にならなそうな知識ばかりが浮遊して、本の魂に邂逅するような体験もなく、半期が終わった。
積まれた本に、虚しさが宿っていた。

そこで、『思想地図β』を買って、ショッピングモールなどの話と思想がどのように絡んでいるのかを読んで、なにか見つけられないか、とふと思いついた、というわけだ。
自分の一番知りたい部分にリンクする知識が手に入ったわけではないのに、読んでいて引きこまれた。
なぜだろう?と不思議だった。ショッピングモールについての話はたしかに学部のころゼミテンが卒論のテーマにしていたりして、見聞きはしていた。しかし、その程度の関心だったはずだ。なぜ、引き込まれるように読みふけったのか。

過去との連続性が欲しいだけなのではないか。
とりあえずの答えだ。もしかしたら、思想・哲学につよい思い入れがあるわけではないのかもしれない。
ただ、過去に得た知識と現在の知識との間に橋が渡されていないと気が済まないだけなのかもしれない。
過去が無駄ではなかった、現在に生きている、と明示的に感じていたいだけなのかもしれない。

無駄にしたとしか思えない過去の時間があまりに長く、その断絶を埋めるようにムリヤリ過去と現在に橋を架けては自分を納得させて生きていることは知っていた。
知識も、ただそれが無駄になるのが怖いだけで、それらの知識に強い思い入れがあるわけではないのかもしれない。
ただ、それが現在と架橋されれば、僕は満足なのかもしれない。

僕の中の知識のストックのウェイトづけが相対化された感じがした。
少し、気が楽になった。特定の知識に拘束されているのではないのだろう。
もう少し、僕は自由なはずだ。